三ヶ根山殉国七士廟において慰霊祭!

二十九日の昭和の日に集まれ
明日の昭和の日、昭和天皇陛下の
誕生日には、愛知県の西尾市幡豆町の
三ヶ根山殉国七士廟において、
午後二時から、慰霊祭が
盛大に開催されます。

 その慰霊祭に参加され、蒲郡市中心に
政治演説会を
井桁まこと参議院愛知県地方区から、
日本のこころを大切にする党
公認候補も、参加されます。

 愛国者の皆様のご参加を
期待しています。

ねずきちさんのブログより、
転載させていただきます。

愛知県蒲郡市に、三ヶ根山という山があります。

ここには、三ケ根山スカイラインという約5kmの有料道路があり、三ケ根山の標高320メートルのの尾根を縦走することができます。
爽快なドライブコースです。
夜、この道をドライブすると、山頂からは東に蒲郡市内の街灯り、その向こうには豊橋の夜景が広がり、西側には岡崎から名古屋の夜景を一望することができます。

そしてこの三ヶ根山の山頂に、日本人なら忘れてはならない大切なところがあります。

「殉国七士廟」です。

殉国七士廟
この「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、日本を背負って殉職された、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。

そうです。いわゆるA級戦犯といわれた方々です。

東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任を追及する裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。

起訴は昭和21(1946)年4月29日に行なわれました。
4月29日といえば、昭和天皇の誕生日です。
それだけみても意図的な報復裁判であることがあきらかです。

さらにいうと、27億円の裁判費用は、日本政府が全額供出させられています。
当時の日本が、終戦直後で、全土が焼け野原、世界の最貧国同然だったにもかかわらず、です。

東京裁判は、昭和23(1948)年11月4日に、判決の言渡が始まり、11月12日に判決言渡が終了しました。

判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。

そして、次の七士が、A級戦犯として絞首刑の判決を受けました。

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)
土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
広田弘毅(文民、内閣総理大臣)
松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)
武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
(名前五十音順)

死刑の執行は、判決の翌月である昭和23(1948)年12月23日です。
この日は、当時皇太子殿下であられた今上陛下のお誕生日です。
ここにも意図的な報復を感じます。

裁判の開廷の日、刑の執行日に、我が国のもっとも大切な陛下のお誕生日をそれぞれ宛てる。
この裁判が、いかに異常な報復行動であったかを象徴しています。

絞首刑となった七士は、即日火葬に付されています。

実は、七士の各担当弁護士たちは、刑の執行のあと、せめてご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願していたのです。
しかしGHQは、まるで受け付けませんでした。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に戻されることはありません。

そこで数名の有志たちが、無法とも思える計画を立案します。
その時の模様が、「天皇と東条英機の苦悩 (知的生きかた文庫)」に書かれています。

日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約を締結しました。
これにより「連合国統治領日本」となっていた日本というエリアは、ようやく独立した国家としての「日本国」となりました。

その日以来、毎年4月29日の昭和天皇御誕生日には、この地で慰霊祭が採り行われ、今日では七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりました。
いまでは、82の慰霊碑が建立され「殉国七士廟」とともに並んでいます。

愛知県近郊にお住まいの方は、天気の良い日に、三ヶ根山にドライブに出かけてみられたらいかが?



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